レモンの出荷箱

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走れメロス...なぜ「万歳、王様万歳」と叫んだのだろう?

こんにちは、レモンです。

 

暑い日々が続く中、学校から帰るのが億劫になってきた日々です。

まあそれでも、そろそろ晩夏という感じがするので、秋の到来まで待機中。

最近は家族が最近、テントで寝ています。

涼しくていいらしいけど...背中が痛くならないのかな。

 

 

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さて、今日は自分が思ったこと、感じたこと等を書いていきます。

今日、太宰治走れメロス」の について、家族と話をしていました。

いわく、

 

走れメロス」でメロスが訪れた街は、活気がなく、皆どこか怯えている。

その理由は暴君ディオニスが人間不信で、皇后などを殺害し続けているから。

だが、物語の終盤ではメロスたちに彼(ディオニス)は、「君たちは私に勝ったのだ。どうか私も、君たちの仲間に入れてくれないか?」といっている。

それに対して民衆は、「万歳、王様万歳」と歓呼の声をあげている。

まあその後物語は終わるけど、恐怖政治布いてた人に、たった一言で万歳っていう気になる?

 

ということでした。

たしかに、民衆がその一言だけで王を迎い入れるのは、ちょっと納得がいきませんね。

地の文で「暴君」と書かれている人なんだから、民衆は容易にその政治を忘れることはできないのではないのかな...。

 

それに対して家族の人々は「王様の過去だとか、人間不信を知っていたから容易に王を迎えた」や、「王が殺したのは王族や皇后、つまり上層階級の人しか描写されてないから、民衆に実害はそこまでなかったのでは?」といってました。

でも、レモンの考えは、ちょっと違います。

 

太宰治の他の小説って、一人称の日記などを使って語ったり、自分で起きたことを振り返ったりする小説(「告白体小説」と言うそうです)が多いと思います。

例として「第一の手記」のように書かれている「人間失格」、ユダ自身が裁判所に訴えたときの言葉を抜き出した「駈込み訴え」、他にも「女生徒」「ヴィヨンの妻」などなど...。

 

でも、「走れメロス」はそれに当てはまりません。

三人称で書かれており、出だしの文も「メロスは激怒した」です。

 

ここからイメージの話になってきますが、レモンの中で太宰治の一人称は日記を読み返してみたり、記憶の断片をつなぎ合わせたような。

自分の中にとどめておく、インプットのような形の小説です。

ですが、走れメロスに限って言えば、そのイメージがアウトプットする、演劇のようになります。

 

舞台は、古代の都市国家、正義vs悪のような話の構造、ミッションとも言える「走る」。

友人であるセルヌンティウス、そして諦めかけるメロス。

 

劇を描くのにぴったりな流れじゃないですか?

むしろ、ゲームのようにも感じられる...。

 

だから、この「王様万歳」に関しては、具体的な理由があるとは思いません。

なぜなら、それは脚本家が書いたストーリーだから。

ハッピーエンドの劇を作るために、それを上映するために、無理やり組み込まれた部分だと思っています。

 

...とまあ、いろいろと書いてみました。

正直、無理のある考え方かもな、と思ってはいます。

ただ、レモンはこういうふうに考えたい、それだけです。

太宰治が描いた走れメロス、実はこういう側面もあったんじゃないか、と想像を膨らませている最中です。

無理やりな考え方をするのも、楽しいひと時でした。